2.
奥の八畳に子供は寝かされていた。もう死は時間の問題であった。湿布も、薬を飲ませることも、回数を減らされていた。湿布をとりかえるたびに裸にされる胸は痩せて、赫黒く、細い手足には、剥ぎ取った絆創膏の後が一面についていて、お腹だけが大きく膨らんでいる。その哀れな身体の中にまだ尽きないでいる力を、細い腕と、小さく握った握りこぶしとに集め、細い足を腹の上まで縮めるようにして、子供は烈しい咳をした。速い、息をすることもできない咳である。咳と咳との合間に咽喉へ息をひき込むがひき込むと同時に次の咳が前よりも烈しく起こるのである。腫れて目の塞がった顔が忽ち充血して赤くなる。かすれた笛のような息をひく音が、細い首の中でするのが哀れである。どうして遣ることもできない。父親は黙って坐っていた。茶色の普段着の(ア)膝を揃えて腕組みをした父親は、じっと畳を見ていた。医者は時々白い手に小さく截った(イ)ダッシメンを持ち、細い腕を拭く、そうして注射器を取り上げる。注射をした後はしばらくの間咳が遠のくのである。子供の腕を抑えていて遣りながら、母は泣いた。もう五つになっていた女の子には思い出があった。赤い下駄で歩いていた姿、いろいろな言葉。「直ったら三越へ行きましょうね」と言った言葉は、ついきのうの事である。思い出が母親の胸を切なく苦しく、圧しつけるのである。襖で仕切られた隣の六畳には、既に死んだ赤子が横たわっていた。幼い姉と弟とは前後して百日咳にかかった。そうして弟の普烈は既に死んだ。葬式は二人一緒にするつもりで赤子は次の間に寝かされていたのである。
もう1死を予言されている子供の苦しむ様子を見つめつづけて夜も昼も死の影の満ちているような部屋に坐っている。母親の心は放心状態に近かった。子供の名前は未里と言った。「未里だけは」と思う。( a )子供の苦痛を見ているのが辛いのである。この苦しみをどうか無くして遣りたい。それができないのだ。注射を一本すれば、とそう言った暗示を持った医者の言葉が、胸の底に、小さな石のように動かずにいる。意志がそこへ向かって惹きつけられるのを止めようとする力はだんだんに弱って行くのである。いけない、この子にはまだ寿命があるかも知れないのに、母は何度か思い返した。思い返すと2自分の考えたことが恐ろしくなる。そうして目が覚めたようになる。
子供の様子は悪くなって行くばかりだった。(ウ)発作が起こると、子供は母親の手を振り千切って固く固く胸に抱くのである。赤子の時のように。続けざまに咳をする。息をひく。全身を固く縮めて、烈しい咳を受けとめようとする子供の努力は見るも悲惨である。どうせ助からないのなら、母親の心は医者の に惹きつけられて行く、何か胸騒ぎのようなもので胸が一杯になる。そうして又思い返す。何度繰り返しても同じだった。
そうして幾時間が経っただろう。夜は昼に続き、昼は又夜に続いた。子供は苦しみ続けていた。咳をするたびに手足を縮めていた子供は、もうその力が弱って来ていた。手足を力無く縮めながら、子供は烈しい咳をする。右左に転がるようにする。咳が止むと子供は、浮腫んだ頬を引っ張るようにしてゆがめた。泣いているのだが、顔が動かない。声も出ないのである。「パッパ。注射を……」母親は夢中でこう言った。父は黙っている。身動きもしない。父親の顔には無残な苦しみが現れた。( b )父は言った。「まあ待て。もう少し待て」母の目に涙が盛り上がった。うつむけた顔がゆがむと、涙がこぼれて、母親は黒っぽい普段着の袖で顔を固く抑えた。
その時、玄関から近づいて来る大きな足音がした。母は伏せていた顔を上げて父を見、そして後に振り返った。堺の襖を開けて祖父が入って来た。母の実家の父親である。祖父は立ったまま子供の様子を見て「うむ」と言った。難しい顔をしかめ、口をへの字に結んでいる。母は蒼い顔で祖父を見上げて言った。「未里を楽にして戴こうと思います。注射で」「馬鹿ッ」破れるような声が頭の上から落ちた。母親と父親とは同時に祖父の顔を仰いだ。「何を言う。人間の寿命というものは分かるものではない。未里にまだ寿命があったらどうする」祖父は医者の方をにらみながら、気が付いたように坐った。袴の両脇に差し込む祖父の手が、ぶるぶるとふるえている。「もう俺が知った上はさせん。医者も医者だ」医者が静かな声で言った。「お一人でも他家の方に知られましては私として、3もう致すわけには参りません」膝の上の注射器を持った白い手が(エ)微かに動いた。
その日から三日経った後、子供の病気は奇蹟的に(オ)コウテンしたのである。
(森茉莉「注射」より一部改変)
問1 本文中の二重線部ア〜オについて、漢字は読み方をひらがなで書き、カタカナは漢字に直しなさい。
問2 本文中の( a )・( b )にあてはまる語句を、次のア〜カより選び、それぞれ記号で答えなさい。
ア なるほど イ つまり ウ やがて エ そこで オ けれども カ さらに
問3 本文中の にあてはまる二字熟語を文中から抜き出して書きなさい。
問4 本文中の傍線部1「死を予言されている」とあるが、両親が未里の死を覚悟している様子が具体的に表現されている一文を本文中より探し、その文の最初と最後の五文字を書きなさい。ただし、句読点も一字とする。
問5 本文中の傍線部2「自分の考えたこと」とはどういうことか。本文中の語句を用いて二十字以内で書きなさい。ただし、句読点も一字とする。
問6 本文中の傍線部3「もう致すわけには参りません」とあるが、なぜ医者はそう言ったのか。「致す」ことの内容を具体的に示しながら五十字程度で説明しなさい。
問7 この文の筆者は、明治時代の文豪・森鷗外の実娘である。次のア〜カの中から森鷗外の作品を一つ選びなさい。
ア 明暗 イ 刺青 ウ 金閣寺 エ 高瀬舟 オ 遠野物語 カ 斜陽